切り株の隠れ家

主に小説や漫画やアニメや映画についての覚書を不定期で放り投げます。基本ネタバレ注意。

KUBO/クボ 二本の弦の秘密(原題:Kubo and the Two Strings)

映画「KUBO/クボ 二本の弦の秘密(原題:Kubo and the Two Strings)」の鑑賞直後覚書です。
鑑賞のきっかけはTwitterでの複数のおすすめ紹介ツイート。2017年12月3日(日)、字幕にて初回鑑賞。

 

■あらすじ(オフィシャルサイト:http://gaga.ne.jp/kubo/
三味線の音色で折り紙に命を与え、意のままに操るという、不思議な力を持つ少年・クボ。幼い頃、闇の魔力を持つ祖父にねらわれ、クボを助けようとした父親は命を落とした。その時片目を奪われたクボは、最果ての地まで逃れ母と暮らしていたが、更なる闇の刺客によって母さえも失くしてしまう。父母の仇を討つ旅に出たクボは、道中出会った面倒見の良いサルと、ノリは軽いが弓の名手のクワガタという仲間を得る。やがて、自身が執拗に狙われる理由が、最愛の母がかつて犯した悲しい罪にあることを知り──。かつて母と父に何があったのか?三味線に隠された秘密とは? 祖父である〈月の帝〉と相対したとき、全ては明らかとなる──。

 

 

※以下ネタバレ全開なので、未鑑賞の方はご注意。

 

 

 

 
ストーリーとしては、クライマックスでの月の帝関連がよく理解できなくて、カタルシスを得損ねた感はあるんだけど、とにかくストップモーション・アニメのえげつなさ(まさしく「変態」と言っていい)と、ところどころの細切れのシーンにめちゃくちゃじんときたりはっとしたりする演出やセリフが散りばめられてて、とにかく「すごいものをみさせてもらった」という感覚で映画館を出た。


「物語」という言葉が最初から最後まで作品中の随所に出てきて、それが本作の一つのテーマというかキーワードのように感じたので、2回目観るときはその言葉にひとつ注目したい。序盤は「これは物語じゃない。現実よ(サル)」「これは物語じゃないんだね(クボ)」みたいに、どちらかといえば否定的な文脈?のように感じたんだけど、中盤、頭上を飛んでいくサギについて一行が言及するシーンで、「あなたの折り紙と一緒。生まれ変わって物語を紡いでいくの」「物語の終わりは新たな物語の始まり」といったニュアンスのことを確か言っていて、そこがすごく印象的で、それこそラストシーンなんかは、残された生者達に送られた灯篭がサギ(でいいのかな)の灯りに変わって空にのぼっていき、光溢れる父と母の魂に挟まれたクボのカットで物語を終える(「おしまい」)というのは、「物語」そのものやそれが持つ力を肯定しているのだよね。おそらく。
今生きている現実≠物語だけど、生き抜いてついに終わった人間の人生は、終わりの瞬間物語化することで、その人自身の生きた時間を越えて、人々の記憶の中で生き続ける、永遠に紡がれる、その力を持つってことなのかな。


あと、「物語」の「虚構性」が持つ力について、これはまったく自分ではわからなかったけど、Twitterで、「記憶を喪失したクボの祖父(月の帝)に対して、村人たちは嘘をつくわけじゃないですか。物語は虚構。それはすなわち嘘なんだけど、でもそれこそが愛なんですよ」っておっしゃっているツイートをみかけて、「あ!?そういうことだったんだ!?」と完全に目から鱗だった。その解釈で正しいとすると村人達あまりにも理解力エスパーすぎないかとか村をめちゃくちゃにした相手に対して揃いも揃ってみんな聖人すぎないかとか新たな疑問はあるけれども、なるほどそれならあのおばあちゃんがクボを「私達の孫だよ」って言ってて「??」ってなったのにも説明がつくなあと。


自分では観終わった後に、「つまり月の帝は元々は村の名士の人間であって、なにかしら無念の残る非業の死に方(サムライを殺そうと彼らと敵対していたというから直接的にはサムライに殺されたのか?)をして、なんやかんやで「この世界は残酷。下賤。救い(愛)など無い」というこじれ方をした魂が黄泉の国では無く月にのぼっちゃってああなったのかな??」とか考えてた。けど、その場合クボのお母さんと闇の姉妹はどういうことになるんだ?とか、というか何にもフォローされてないけど闇の姉妹には救いは無いのだろうか?とかウンウン悩んでいた。
これはぜひとも劇場で2回目を観てまた悩みたい。


※メモ:「虚構としての物語の力」というテーマでは、ちょっと前に読んだイアン・マキューアンの「贖罪」と、その映画版「つぐない」と、関連するところがあるかもしれないと思い浮かんだ。

 

 
後は印象に残ったところを思い出した順に箇条書きで!
・サルがめちゃくちゃいいキャラクター造形で、特に序盤のクボ!クボ!ってめっちゃ心配して彼を守ろうとするサルの瞳がほんとにすばらしくて感動した。あと、やっぱり普通にシャーリーズ・セロンのお声が私は大好きだと再確認した。姉さま!
・「家紋がクワガタの時点でその事実に気づけ自分!」ってあのシーンが来たとき思った笑。サルとクワガタの船上でのやりとりがいい感じで、特にクボが二人のやりとりに「ちょっと。気持ち悪いんだけど、、」みたいなこと言って、男女の恋愛に対する子供特有の嫌悪感を示してるとこに、あれ?この描写がある以上、サルってクワガタと良い感じになる展開なの?でもサルはお守りを依り代にした実質クボのお母さんの魂なら、愛する夫とは別でクワガタと良い感じになるのはちょっと、、?と思っていたら!あれだ! まあ後から考えればそりゃそうっすよね!って展開なんだけれども。安心した。
・クワガタと折り紙のハンゾウはキャラが全くの別人だけど、それは生身の人間としての「ハンゾウ」と、物語の英雄としてしか父親を知らないクボの認識上の「ハンゾウ」の違いだったんだろうなあ。
・闇の姉妹、能面つけてて表情ゼロなのが本当に不気味で怖いんだけど、終盤の戦いで下半分が割れて、姉かハンゾウを罵るときだったかな? めっちゃ口元を歪めながらしゃべっていて感情に溢れていたのが今唐突に思い出された。思い返すと、姉妹も「月の民:不浄の地を離れた感情を持たない「完璧」な存在」を装っていただけの元人間(装ってるだけだから「能面」であって本当の顔じゃない)だったのかな、と考えた。
・序盤、まだクワガタがいないとき(敵役か?と思わせる影だけ岩場にみえたとき)、折り紙の制御が効かなくなって超でかい蚊(それとも蜂?)に変わってサルを襲ったの、あれはなんだったんだろう?岩場にちらつく影が敵キャラだったらその敵キャラの仕業かとなっただろうけどクワガタだったしなあ。単純にクボの嘘?それか、まだ未熟だから、ちょっとしたサルへの反抗心がクボの制御を離れて折り紙に影響しちゃったということだったのかな? その直後のサルのセリフも覚えてないから観返したい。
・いきなりまた最初に戻ると、心神喪失の母を献身的に世話する一人息子クボという初っ端の描写にまずやられたし、「その日あった細かいことを母に話すとき、ちゃんと母は自分をみてくれていた。その眼は輝いてた」って船の上で母との生活について語るクボ、そのシーンの一連のセリフそのものと、「母の愛に包まれて本当に満ち足りていた、その実感がある」と言葉より雄弁に語っているクボの表情がもうたまらなく好き。
・三種の武具は正直影が薄くて、旅路でも基本クボが戦う方法、一行を守ってきたのは、折り紙を操る三味線の力だった気がしたので、月の帝を三種の神器で倒してめでたしめでたしというのはちょっと腑に落ちないなあと思いながら終盤観ていたので、クボが最終的に武具を脱ぎ捨て、三味線で決着をつけてくれたことが嬉しかった。二本の弦のタイトル回収シーンが一番のカタルシスだった。「あー!そういう!そういうことね!!(喜)」→そして三味線の弦の本数は三本→「残りの一本は……あ゛あ゛あ゛」っていう。そしてこの意味を知ったうえで思い返すと、サルとクワガタを失ったクボが涙を落とし、その涙が弦に落ちて一音奏でる、その三味線の弦は一本……というとこにまた「あ゛あ゛あ゛」となる。あとエンドクレジットの、「この映画は私の二本の弦である父と母に捧げる」という献辞は反則だと思う。字幕なかったら気づかなかっただろうからそれにも感謝を述べたい。
・あと単純に三味線の音と、折り紙の映像美がたまらん。三味線が奏でられるたびにDNA直撃でテンションあがった。
・そして最後に、いやもうこれ本来まず最初に述べとくべきことだろうけどこれストップモーション・アニメ!コマ撮り! 映画序盤はもうずっと「これコマ撮り?ほんとにストップモーション?まじで?」ってのが頭から離れなくてストーリーに集中できないから早々に途中で意識的に忘れたけどコマ撮り!コマ撮り!!変態!!!

 

※追記①(2017/12/10)
・クボの母が冒頭、昼の間は心神喪失状態で、日が暮れてやっと己を取り戻すの、元月の民だったとわかると納得。ハンゾウを失って、元の月の民の習性に戻っていってしまったのか。
・月の帝のオチ、人によっては人間の残酷さをみたという人もいてなるほどと思った。記憶を失った月の帝に、自分達にとってかなり都合のいい人格(「お小遣いをくれたよ!」)を押し付けて、まったく別のなにか、にしてしまう。確かになあ。どういう考え方をしても部分的によくわからない腑に落ちないものがあるなかでいろんな見方ができるという意味で、奥深い風呂敷のまとめ方かもしれない。