すべてはプライベート・オピニオン

主に小説や漫画やアニメや映画についての覚書を不定期で放り投げます。基本ネタバレ注意。

ジュピターズ・ムーン(原題:JUPITER’S MOON)

映画「ジュピターズ・ムーン(原題:JUPITER’S MOON)」の鑑賞後覚書です。
鑑賞のきっかけは、劇場スケジュール一覧を確認していて、あらすじが面白そうで目にとまったこと。前情報はあらすじ以外一切入れずに行きました。

 

■あらすじ(オフィシャルサイト:http://jupitersmoon-movie.com/
医療ミスによる訴訟で病院を追われた医師・シュテルンは、難民キャンプで働きながら違法に難民を逃すことで賠償金を稼ぎ、遺族による訴訟取り下げを目論んでいた。
ある日、被弾し瀕死の重傷を負った少年・アリアンが運び込まれる。シュテルンはアリアンが重力を操り浮遊する能力を持ち、さらには傷を自力で治癒できることを知り、金儲けに使えるとキャンプから連れ出すことに成功する。
その頃、アリアンを違法銃撃した国境警備隊が口封じのため彼らを追い始めるが、行く先々で起こる失踪やテロ、不可解な事件の現場に少年の痕跡が残されていることに気づく―

 

 

 ※以下ネタバレ全開なので、映画未鑑賞の方はご注意。

 

 

 鑑賞後大枠感想

圧倒的浮遊感。「空中浮遊の能力を持つ少年」という劇場HPの作品紹介につられた観客に十二分に応えてくれる映像美だった。一番最初に少年が浮き上がったシーンはちょっと吊ってるぎこちなさというか特殊効果感あるかなー?と思ったけれど、一瞬後のそらーもうぐるんぐるん回されるカメラがすさまじくて(うっかりするとちょっと「やばい。酔うかも」って不安になったぐらい笑。すぐ慣れるけど)、「これは映画で、現実には人は浮遊しない」という理性は明後日に吹っ飛ばされる。その後の浮遊シーンの数々もどれもほんとに素晴らしくてとてつもなく惹き込まれた。あとなんか宇宙が舞台の映画の画面みたいだと思った。無重力感が。
ハンガリーという舞台も、移民問題も、正直私にはこれまで馴染みがないテーマで、そもそも「空中浮遊の能力を持つ少年」という設定がすでに現実ではありえないんだけど、それにもかかわらず、最終的には、この映画はなんだかすごく「リアル」で、「現実」を描いている作品だという風に感じた。
観終わった直後は、あのすごく幻想的なラストシーンで、むしろすごく神話的というか、だってシュテルン医師はともかく、あの後アリアンは、ヴェラは、ラズロは、あの場にいてすべてを見上げていたハンガリーの人々は、この後一体どんな一日を過ごしたのか?これからどんな人生を歩むのか?というのがまったく想像できなくて、この映画の中の世界はこのシーンで完全に時間をとめて終末を迎えてしまったんだってぐらいに感じたんだけど、エンドロールが終わってぼんやりしながら映画館を出て、家でゆっくり買ったパンフレットを読んだ後は真逆になった。それは、映画を観てわかんなかった私の2大疑問、「①なぜ「ジュピターズ・ムーン」というタイトルなのか?(冒頭でめっちゃ意味ありげに木星の衛星「エウロパ」って出てきたけど映画観終わっても意図がわからなかった!)」と「②ラストシーン、天高くのぼっていくアリアンと彼を見上げる人々の乗る停止した大量の自動車の俯瞰で終わらず、なぜかくれんぼの鬼をする目隠ししたこどものカットで幕が下りたのか」について、パンフレットに書かれていた監督の答えを読んだからだった。それは後述。
といっても100%リアル、というのもまた違って、より正確にいうなら、果てしないフィクションであり、かつ限りなくノンフィクションでもあるというか? 今私たちが生きている現実と、地理的時間的次元的にはるか遠く彼方の神話が、並存し、融合したようなお話というか? 頑張って言葉にするとなんかそんな感じ。。。
監督自身の言葉を抜き出すと、パンフレットによれば、「(前略)ムンドルッツォ監督は、現実をただ描くことは観念的な物語を生み出すだけだといい、あえて“奇跡”を取り上げることで現在の危機的状況に光を当てようと思ったという。」とのこと。これ読んだときに、ぼんやりしていたこの作品の輪郭が、ほんの少しクリアにみえたような気がした。
総括すると、噛めば噛むほど味が出るというか、まだまだ何度でも観て咀嚼のしがいのある作品だと思いました!

 

 

この映画のここ! 

① なぜ「ジュピターズ・ムーン」というタイトルなのか?

↓パンフレットから抜き出し(※注釈は省略)
「現在、木星には67の衛星があることがわかっている。そのうち、天文学者ガリレオ・ガリレイによって発見された「エウロパ」は、「ヨーロッパ」の語源となったラテン語「EUROPA」と同じ綴りの衛星だ。エウロパの地表を覆った厚い氷の下には塩水が流れ、そこには生命体が存在する可能性も示唆されている。つまり人類や生命体の「新たな命の揺りかご」になり得る場所なのだ。本作を近未来を舞台にしたSF映画として企画したコーネル・ムンドルッツォ監督は、リアルなヨーロッパではなく、どこかにある“もうひとつのヨーロッパの物語”だという思いから、本作を木星の月(=エウロパ)と名付けた。」

⇒素直に「あ~!そういうことね!」って納得でき、作品に対する監督の思いがストレートにのっている良タイトルだと思う。


② ラストシーン、なぜかくれんぼの鬼をする目隠ししたこどものカットで幕が下りたのか?

↓パンフレットから抜き出し(※監督インタビュー)
「実は、14年に難民キャンプを訪れた時に目撃した光景そのままなんです。そこではアフガニスタンイラク、シリア、北アフリカなど各地から集まった子供たちが、ラフな英語を使って遊んでいました。過去を失い未来も見えない子供たちが、自分達の言語すら失った姿を見て、胸が押しつぶされそうになりました。少年が英語で口にする「Ready or not, here I come(準備ができなくても行くよ)」は、危機はいつ訪れるか予測できないという、この映画のメタファーにもなっています。(後略)」

⇒このシーン自分なりに頑張って解釈しようとしたときに、英語ほとんどできない人間なので、「もういいかい(だったかな?)。探しに行くよ」という字幕と、ほぼすべての人間がアリアン(天使の象徴)を見上げている中目隠しをして気づかない少年から、→天使の存在に気付かない・無関心な現実の人々の暗喩→ただ、「探しに行く」という意思さえ持てばすぐにも天使を見つけることができるよ(実際この少年は目隠しの手を外したら周りの人間みてすぐに自分も空を見上げるだろうし)っていうメッセージ?とか頑張って考えをこねくり回してたんだけど、いざパンフレットの監督インタビューみたら全然違った。 字幕の意訳に引っ張られすぎてた笑
英語でもその他の言語でも、私にとってはどちらも「外国語」にすぎないから、難民の子供が「英語」をしゃべっていることにも全然ぴんとこなかったのがくやしい。「21から23にカウント飛んじゃって、22、23って数えなおしてる舌っ足らずの英語かわいー」とか呑気に思ってた。。
自分の解釈がすごいぼんやりした観念的なものだったのが、このインタビュー文で一気に明確に「リアル」に引っ張り寄せられた。

 

③ 印象的なシーン

・アリアンの浮遊シーンはどれも印象的という意味でははずせないけれど、その中でも、追ってきたラズロから逃げるためにビルの相当高い階からゆっくり降下していくシーンで、それぞれの日常を送っているアパートの住人達が窓越しに次々に映し出されながら、最後にぐっと地面に伸びる影がアリアンのアップされた足とくっつくところがすごく芸術的だと思った。あと、予告にも入っていた、ある一室の中だけ重力を操って天地をぐるぐるまわすとこ。あれ、その部屋の主がその後飛び降り自殺(というか正確には自分にも空が飛べるのではと思って飛んだんだと思うけど。死ぬつもりなんかじゃなくて)していたことが映画の途中でわかるのもあいまって、すごく印象に残った。(あと、その部屋の主がアリアンのこと「ロマ」って言って侮辱の言葉を投げかけて、シュテルン医師の反応からしてもそれがすごく文化的にタブーだということはさすがにわかるんだけど、実感として伴わないのがちょっと置いてけぼり感あってそれもくやしいポイントのひとつ。例えるなら、はじめてドラコがハーマイオニーに対して穢れた血って言ったときのハリーのような。。)

・↑のアパート降下のシーンもそうだけど、映画のラストシーンでやっと人々がみんな空を見上げるとこに至るまで、アリアンの浮遊がまじでほとんどの人に気づかれないというのも、シーンじゃないけど印象的。そりゃ普段の生活で上なんかそうそう見上げないから気づかないんだよね。それはシュテルンが、アリアンとの再会後にふたりベッドに並んで横になっているシーンで、アリアンに語りかけるセリフにもあらわれてる。字幕だし正確に覚えているわけではないけど、「お前(アリアン)は神(天?)が遣わしたメッセージなんだ。地面に、社会にへばりついて生きている俺たちに、「空を見上げろ」と言っているんだ」といったニュアンスのことを言っていて、それがセリフとしては一番印象に残っている。

・シュテルン医師とアリアンの屋上での再会の抱擁後、アリアンの靴紐を結ぶために彼の足元にしゃがむシュテルン、その頭に左手を載せるアリアン。ここ、「洗礼」的なイメージをのせてるシーンということでいいのかな。キリスト教圏の人々だったらもっとこう心臓というかDNAにダイレクトな演出なのかもしれない。ただなんか映画全体からみるとここだけやけに浮いてる感じもした。シーンのためのシーンというか。ちょっと強引?